私が学生だった1970年代は、生態学が教科として取り入れられ始めた頃
で、テキストは米国のオダムの”Fundamental of
Ecology”であった。一方学生の自
主ゼミでは英国のエルトンの”Animal
Ecology”をテキストに選んだ。同じ生態学であっても、両者
の概念は全く異なっており、エルトンの生態学は、基本は野外での自然観察
であった。英国は、ダーウィンのミミズの研究に見られるように伝統的に生
物の観察(博物学にも通じるが)を基本にしていた。反して、オダムの生態
学は、生物間での物質循環を定量的に把握することを基本としていた。従っ
てその手法はどちらかというと分析化学的な部分が多く、生物の姿を目にし
なくても論じられるものでもあった。ただし、そこには実際の食物連鎖を確
認していないという大きな誤謬を含むリスクもあったのだが、同位体元素の
解析手法が進むことによって解析精度は上がったと思われる。
自然観察を主体とするエルトンの生態学は、成果を得るためには多大な時間
と労力を必要とするものであり、一方のオダムの生態学は比較的短時間で成
果が得られるので、学生にとっては魅力的であった。また、生態学の定義で
ある環境と生物の相互関係を、物質やエネルギーを通して見ることが出来る
という利点もあった。
(ところで、私の恩師の沖野外輝夫教授の退官記念講演で、生態系のシステ
ムでは窒素やリンなどの物質やエネルギーの循環だけではなく、情報の循環
もあると言われたことが、ずっと気になっている。特に、現在のように情報
ネットワークが社会インフラとなりつつある時にその意味が重要となる気配
がする。最近、化学物質を介在した情報の伝達を基調とした化学生態学とい
う分野が進んでいるという記事を見たが、まさに生態系にも情報の循環があ
ると言えるようである)
その後、公害問題が環境問題として認知されるにしたがって、生態学(エコ
ロジー)という言葉は、いわゆる”環境に優しい”という意味で使われるよ
うになった。で、現在、SDGsである。世界の人口が100億に達しよう
という時に、閉鎖空間である地球での持続可能性とは何であろうか。そこに
気候変動という地球規模で生態系にとって重要な(いや、人間社会にとって
問題なだけであって、生物にとっては単に適応していくだけの問題である
が)変化が起きつつある。(最近読んだ論文では、現在、直ちに人間活動由
来のCO2排出量を0にしても、気候温暖化は自己進行していくサイクルに
入ったという‘”point of
noreturn”を過ぎたということが論じられていた。シベリアなどの凍土融解に伴うメタンガスの放出の寄与が大きいらしい。)
地球全体での人口増加と、気候変動に伴う地球規模での農耕の壊滅を想定す
ると、かつて、日本では自然の物質循環に人間を取り込んだ社会システムを
構築しており、それこそが持続可能な社会システムであった。すなわち、資
本主義から農本主義への転回によって、食料自給率の増加こそが持続可能な
社会への道ではないかと考えている。持続可能性は自然の物質循環を基盤と
したエネルギーと食料の自給自足を可能とする小さなコミュニティこそが基
本ではないかと考えている。斜め上目線の先進的(?)な企業が得意気に
SDGsを呼称している姿を見るたびに、将来の日本人がスマホを握りしめ
て餓死している姿が思い浮かぶのである。
代表取締役社長 手塚
和彦
ノルウェー極 地研究所(ノルウェー トロムソ)にて